2021年09月28日
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ
《令和6年2月2日更新》
皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術(せんごく・かっせんじゅつ)」第50弾として、「長谷堂(はせどう)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。
【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】 | |
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江古田原沼袋合戦 | 権現山の戦い |
第一次国府台の合戦 | 川越城の合戦 |
志賀城の合戦 | 郡山城の合戦 |
厳島の合戦 | 四万十川の合戦 |
今山の合戦 | 耳川の合戦 |
金ヶ崎城の合戦 | 一言坂の合戦 |
三方ヶ原の合戦 | 叡山焼き討ち |
江古田原沼袋の戦い② | 石山合戦 |
雑賀・根来合戦 | 第一次国府台の戦い② |
三木合戦 | 本能寺の変 |
文禄・慶長の役 | 関ヶ原の戦い |
第二次上田城の戦い | 田辺城の戦い |
安濃津城の戦い |
※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂井洋子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。
日頃生活をしていて、損得勘定(そんとく・かんじょう)ってやっていますか?
日本人はどうも、損得勘定を前面に出すのを嫌う傾向があります。
「せこい」とか、「ケチだ」とか、「計算高い」などと言って。
しかし、この「損得勘定」(言い換えると「算盤(そろばん)勘定」)は間違えれば損害を被ることになり、損害を被り続けたら人生が立ち行かなくなるわけです。
それだけ重要なことを「せこい」とか「ケチ」だとかの言葉で一蹴してしまうのは、自分の人生に真剣に向き合っていないことだと言えます。
というわけで今回は、上杉(うえすぎ)家臣である直江山城守兼続が最上(もがみ)家臣・志村伊豆守光安と激闘を繰り広げた「長谷堂城の戦い」から「算盤勘定をもつ」ということを学ぼうと思います。
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2021年09月24日
『青天を衝け』第26回―高松凌雲について
《令和6年4月8日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第26回に関しての楽しむためのヒントを解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。
まずはあらすじ。
第26回のあらすじ
明治元年(1868年)11月、パリから帰国し諸々の整理を終えた渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)は、武蔵・血洗島(むさし・ちあらいじま)に6年振りに帰郷した。
父・市郎右衛門美雅(小林薫)や母・ゑい(和久井映見)、妻・千代(ちよ)(橋本愛)、娘・うた(山崎千聖)らに迎えられるも、想い合っていた従兄・渋沢平九郎昌忠(岡田健史)を亡くした妹のてい(藤野涼子)は一人浮かない顔をしていた。
その頃箱館(はこだて)では、五稜郭(ごりょうかく)を落とした篤太夫の従兄・渋沢成一郎英明(高良健吾)と土方歳三義豊(町田啓太)は新政府軍との戦いを続けていた。
そこにはかつて篤太夫とともにパリにあった高松凌雲(細田善彦)がいた。
高松は敵味方構わず負傷者を治療し、パリでの感動を実践していた。
尾高(おだか)家を訪れた篤太夫は、変わり果てた従兄・尾高新五郎惇忠(田辺誠一)の姿に息を飲んだ。
惇忠は飯能(はんのう)戦争に参加するも三弟・平九郎を失い、次弟・長七郎も病死してしまったことで精神的に弱り、自分ひとりが何も成し遂げず生き残ってしまったことを悔いていた。
篤太夫は同じ苦しみを感じていることを吐露しつつも、「生きていれば新しい世のために出来ることがきっとある」と惇忠を励ますのであった。
血洗島に戻った篤太夫は、千代に今度こそ家族で暮らすことを約束し、主君・前将軍・徳川前内府慶喜(草彅剛)のいる駿府(すんぷ)へ向かった。
駿府で慶喜と再会した篤太夫は、大政奉還(たいせいほうかん)後の慶喜の行動を批難しかけるも慶喜に制され、パリでの民部公子(みんぶこうし)・水戸(徳川)民部大輔昭武の立派な姿を慶喜に伝えた。
ということで、
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2021年09月20日
かかとが着脱可能な素敵な革靴
皆さんこんばんは。
今回は「かかとが着脱可能な革靴」を買った話です。
【革靴関連の記事】
・スパークリキッド(靴用クリーム)
・靴を買った(LASSU&FRISS)
・歩き回る人のための革靴
・靴を買った
スーツスタイルに欠かせない革靴。
スーツで通勤している人には必須のアイテムですが、誰もが抱える悩みがあると思います。
それは、かかとが磨り減ること。
普通に歩いていても磨り減っていきますし、かっこよく歩こうと思うとかかとで着地するので、なおさら消耗が激しいですよね。
僕は以前は靴の修理屋さんに出してかかとを直してもらっていたのですが、安い革靴を履くことが多いので、修理するよりか買った方が安上がりなんですよね。
で、思い立ったのが、100均でかかとの修理キットを買って自分で直すこと。
実際やってみたのですが、磨り減ったかかとのラバー部分をはがして、接着剤をサンドペーパーで削って、新しラバーに接着剤を塗って…とやたらめったら手間がかかります。
さらに、仕上げとしてハンマーで釘を打ち込まなくてはいけないのですが、この頃僕は集合住宅に暮らしていたので釘打ちはNG。
とても困っていました。
しかし、平成29(2017)年頃、耳より情報が入ってきました。
それは…
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2021年09月16日
『青天を衝け』第25回―貨幣経済とは?
MaccabeeによるPixabayからの画像
《令和6年11月6日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第25回に関しての楽しむためのヒントを解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。
まずはあらすじ。
第25回のあらすじ
慶応(けいおう)から改元した明治元年(1868年)11月、民部公子(みんぶこうし)・清水民部大輔昭武(板垣李光人)に随伴し渡仏していた渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)は、民部公子らとともについに帰国。
横浜(よこはま)に帰港した。
上陸した篤太夫は、先に帰国していた杉浦愛蔵譲(志尊淳)らに留守中に国内で起こった出来事を聞いた。
去る慶応4年(1868年)正月、前将軍(さきのしょうぐん)・徳川内大臣慶喜が突然大坂(おおさか)から江戸(えど)に戻ってきた。
天璋院(てんしょういん)(上白石萌音)や静寛院宮(せいかんいんのみや)(深川麻衣)は新政府軍に手紙を送り、慶喜は上野(うえの)・寛永寺(かんえいじ)に蟄居(ちっきょ)した。
江戸城は新政府軍に無血開城されたが、役人を罷免された小栗上野介忠順(武田真治)は捕らえられ斬首され、川路左衛門少尉聖謨(平田満)は拳銃自殺した。
篤太夫の従兄である渋沢成一郎英明(高良健吾)は上方(かみがた)での戦いで負傷していた。
なんとか江戸に戻り、主君・徳川慶喜の無念を晴らすために彰義隊(しょうぎたい)の頭取(とうどり)となった。
しかし、当の慶喜は寛永寺から水戸(みと)に移ってしまい、主を失った彰義隊は分裂した。
成一郎は、彰義隊に参加した従兄の尾高新五郎惇忠(田辺誠一)、惇忠の弟で篤太夫の見立て養子となった渋沢平九郎昌忠(岡田健史)らとともに「振武軍(しんぶぐん)」を結成。
飯能(はんのう)を拠点としたが、新政府軍に攻撃され、部隊は四散した…
ということで、
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2021年09月12日
『青天を衝け』第24回―証券とは何か
edmondlafotoによるPixabayからの画像
《令和6年2月29日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第24回に関しての楽しむためのヒントを解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。
まずはあらすじ。
第24回のあらすじ
慶応(けいおう)3年(1867年)年末、正月の準備をしていた血洗島(ちあらいじま)・渋沢市郎右衛門美雅(小林薫)邸に一人の武士が現れる。
パリで渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)とともに過ごしていた、杉浦愛蔵譲(志尊淳)であった。
杉浦は、篤太夫からの手紙とパリで撮影された民部公子(みんぶこうし)・清水民部大輔昭武(板垣李光人)や篤太夫のホトガラフ(写真)をもたらしたのであった。
民部公子の立派ないでたちや、洋装に身を包んだ凛々しい篤太夫の姿に感動する渋沢家の面々であったが、篤太夫の妻・千代(橋本愛)だけは一人「あさましい」と嘆くのであった。
明けて慶応4年(1868年)、パリの篤太夫達の下へ幕府からの御用状(ごようじょう)が届いた。
そこには、昨年10月徳川内大臣慶喜(草彅剛)が政(まつりごと)を朝廷に返上した、と書かれていた。
一行は動揺し、篤太夫は金策に悩んだ。
そこで日本総領事であるフリュリ・エラール(グレッグ・デール)は篤太夫を連れ出し、証券取引所を見学させた。
大勢の人々から少しずつお金を集め、事業をし、利益が出たら分配するという証券の仕組みを聞かされた篤太夫は大いに感動するのであった。
3月になって届いた御用状に、一行は更なる衝撃を受ける。
京都(きょうと)の鳥羽伏見(とば・ふしみ)で薩摩(さつま)軍と幕府軍の間に戦闘が起こり、幕府(ばくふ)は敗走したという。
さらに、慶喜は朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられ、敗残兵を置いて大坂(おおさか)を放棄し江戸(えど)へ向かったという。
5月になり新しい政府から手紙が届き、留学を止めて帰国するようにとのことであったが、民部公子らは慶喜の「勉学を続けるように」との意向を重視し帰国せずにいた。
7月には日本にいたロッシュがフランスへ戻り、水戸(みと)藩主である権中納言慶篤の死が伝えられた。
そして新政府は、民部公子に帰国して水戸藩主を継ぐようにと伝える。
その知らせに、民部公子は帰国を決意する。
パリで多くのことを学んだ渋沢篤太夫も、ついに帰国の途に就くこととなった。
ということで、
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2021年09月08日
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない
《令和6年2月21日更新》
皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第49弾として、「安濃津(あのつ)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。
【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】 | |
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江古田原沼袋合戦 | 権現山の戦い |
第一次国府台の合戦 | 川越城の合戦 |
志賀城の合戦 | 郡山城の合戦 |
厳島の合戦 | 四万十川の合戦 |
今山の合戦 | 耳川の合戦 |
金ヶ崎城の合戦 | 一言坂の合戦 |
三方ヶ原の合戦 | 叡山焼き討ち |
江古田原沼袋の戦い② | 石山合戦 |
雑賀・根来合戦 | 第一次国府台の戦い② |
三木合戦 | 本能寺の変 |
文禄・慶長の役 | 関ヶ原の戦い |
第二次上田城の戦い | 田辺城の戦い |
※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂井洋子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。
日々の生活で、ミスや失敗をすることって多くありますよね。
書類の数字を間違えたとか、お客さんに鬼クレームを入れられたとか。
仕事だけでなく、恋愛についても好きな異性とうまくいかないとか、彼女にフラれたとか。
そういったネガティヴな出来事って、直面しているその時は人生を揺るがす大事件のように思えますが、果たして本当にそうでしょうか?
もちろんその失敗のフォローやレヴューをせずに放置するのはよくないことですが、そうした上で後から振り返るとのちの成功の布石になっていることがほとんどです。
一時的に落ち込んだとしても、ほとんどの場合は人生を揺るがす大ピンチとなることはありません。
むしろ、それが次の成功につながっていることの方が多いです。
というわけで今回は、富田信濃守信高が安芸宰相毛利秀元らと激闘を繰り広げた「安濃津城の戦い」から「小さな局面での勝敗に捕らわれない」ということを学ぼうと思います。
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2021年09月04日
『青天を衝け』第23回―栗本鋤雲について
Free-PhotosによるPixabayからの画像
《令和6年3月18日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第23回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。
まずはあらすじ。
第23回のあらすじ
慶応(けいおう)3年(1867年)、パリにいた民部公子(みんぶこうし)こと清水民部大輔昭武(板垣李光人)一行は、薩摩の暗躍によりフランスからの600万ドルの借款(しゃっかん)の話がなくなったと聞き、動揺した。
このままでは予定されていたヨーロッパ各国の訪問ができないと焦る一行だったが、書記官であった田辺定輔太一(山中聡)のアイディアにより、為替を発行することでヨーロッパ訪問の費用を捻出した。
各国との交渉役を担ったのは渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)であった。
スイス訪問中に外国奉行である栗本鋤雲(池内万作)らが民部公子一行に合流し、小栗上野介忠順(武田真治)から預かってきた為替を篤太夫に手渡した。
杉浦愛蔵譲(志尊淳)には帰国命令が出たため、篤太夫は家族への手紙を託した。
その頃日本では、暗殺により腹心・原市之進忠敬(尾上寛之)を失った将軍家・徳川内大臣慶喜(草彅剛)が薩摩(さつま)への対応に苦慮していた。
10月12日、慶喜はなんとか戦を避けるため、政権を幕府から朝廷に返上するという挙に出た。
後の世にいう大政奉還(たいせいほうかん)である。
ヨーロッパでは、民部公子の師・ヴィレット(サンシモン)の勧めにより、一行は髷(まげ)を切って洋装に着替えることとなった。
涙ながらに髷を切る水戸藩士たちであったが、篤太夫は嬉々として洋装に身を包んだ。
12月になり、朝廷では岩倉具視(山内圭哉)の暗躍により、小御所(こごしょ)会議が開かれた。
そこには慶喜の姿はなく、慶喜の参加を求める前土佐藩主・山内容堂(水上竜士)を後目に、会議では慶喜に領地の返上を求めることが決まった。
江戸(えど)では薩摩が江戸城にいる天璋院(てんしょういん)(上白石萌音)を奪うため火を放ち、それを受けた老中が薩摩藩邸を攻撃してしまった。
なんとか戦を避けようとする慶喜をよそに、日本中を巻き込んだ内戦が起ころうとしていた。
ということで、
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2021年08月31日
クラシックゲームの恐怖で身震いしよう!(バイオ・ハザード2@プレステ1)(4)
皆さんこんばんは。
今回は平成10(1998)年に発売されたゾンビゲームの金字塔『バイオハザード』シリーズの第2作目『バイオハザード2』についての記事第4弾です。
前々々回の記事(下記)では20年振りにソフトを引っ張り出してきてプレイしたエピソードを書きました。
参考記事:
クラシックゲームの恐怖で身震いしよう!(バイオ・ハザード2@プレステ1)
久々にやり始めた頃はひとつのシナリオをクリアするのに5~6時間かかっていたような気がしますが、何度かやり込むうちに操作技術も上がり、条件をクリアして、おまけ武器である「無限サブマシンガン」、「無限ロケットランチャー」を手に入れました。
参考記事:
クラシックゲームの恐怖で身震いしよう!(バイオ・ハザード2@プレステ1)(2)
その後、何周もプレイするうちに熟練度が上がり、ついに各シナリオを2時間台前半でクリア。
さらにノーセーブクリアも達成し、おまけ武器のコンプリートに成功しました。
参考記事:
クラシックゲームの恐怖で身震いしよう!(バイオ・ハザード2@プレステ1)(3)
関連記事:
『バイオハザード2』(ゲームキューブ盤)を買ってもらった
関連記事:
バイオハザード2
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2021年08月27日
『青天を衝け』第22回―保科俊太郎について
Ghazaleh TaebによるPixabayからの画像
《令和6年10月16日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第22回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。
まずはあらすじ。
第22回のあらすじ
慶応(けいおう)3年〔1867年〕、民部公子(みんぶこうし)こと清水民部大輔昭武(板垣李光人)の供としてフランスに向かった渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)は、見るものすべてに驚いた。
船中で食べたパン、民間の会社が作っているスエズ運河、パリが見渡せる凱旋門(がいせんもん)、あっという間に屋上に連れて行ってくれるエレベーター。
篤太夫の感動をよそに、薩摩藩(さつま・はん)は幕府(ばくふ)とは別に万博に出品することで幕府の権威失墜を狙っていた。
その狙いは図に当たり、新聞に「日本は連邦国家で、幕府はその中の一政権に過ぎない」と虚偽の報道をされてしまった。
日本では、将軍家(しょうぐんけ)・徳川権大納言慶喜(草彅剛)が各国の公使と渡り合い、政権の主導権を狙う薩摩藩国父(こくふ)・島津左近衛権中将久光(池田成志)をあしらい、久光の野望を阻止することに成功した。
しかしそれは、久光の方針を倒幕(とうばく)へと方向づけるものとなってしまった。
血洗島(ちあらいじま)では、篤太夫の従兄・尾高新五郎惇忠((田辺誠一)の弟である平九郎(岡田健史)が、篤太夫の見立て養子となり江戸(えど)へ発つことが決まった。
幕府では、ヨーロッパの新聞に「幕府は一大名(だいみょう)に過ぎない」と書かれたことにより、600万ドルの借款(しゃっかん)が絶望的となったことで小栗上野介忠順(武田真治)らが途方に暮れていた。
ということで、
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2021年08月23日
『青天を衝け』第21回―杉浦愛蔵について
《令和6年10月4日更新》
皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第21回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。
大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。
まずはあらすじ。
第21回のあらすじ
慶応(けいおう)2年(1866年)、幕府(ばくふ)の仕事が退屈で腐りかけていた渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)に転機が訪れる。
一橋(ひとつばし)家時代から親しい原市之進忠敬(尾上寛之)に呼び出され、主君・徳川権中納言慶喜より直々の命を伝えられる。
それは、パリ万博に派遣される慶喜の弟・民部公子(みんぶこうし)こと清水(徳川)民部大輔昭武(板垣李光人)に随伴して渡仏(とふつ)せよというもの。
篤太夫は二つ返事でそれを承諾し、渡仏への準備を始めた。
それに当たって、もしもの時に家を絶やさないため「見立て養子」を立てる必要があると告げられた篤太夫は、従兄・尾高新五郎惇忠(田辺誠一)の弟である平九郎昌忠(岡田健史)を立てたいと考えた。
京都(きょうと)では慶喜が正式に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任するも、彼を支持していた孝明天皇(尾上右近)が崩御し、慶喜は早くもその後ろ盾を失うのであった。
篤太夫は、民部公子の供として京都を出発し、横浜(よこはま)へ着いた。
そこで幕府勘定奉行(かんじょうぶぎょう)である小栗上野介忠順(武田真治)から、渡仏の重要な目的のひとつに600万ドルの借款(しゃっかん)を得ることがあると告げられる。
渡仏の準備を進める篤太夫は江戸(えど)に向かい、見立て養子のことを相談するために従兄の成一郎(高良健吾)を訪ねた。
成一郎は不在であったが、同じく従兄で獄中にいる尾高長七郎(満島真之介)を訪ねた時に偶然再会する。
成一郎、長七郎と話をした篤太夫は慶長3年(1867年)1月、フランスへと旅立つのであった。
ということで、
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