2021年10月18日
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第51弾として、「大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。
【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】 | |
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江古田原沼袋合戦 | 権現山の戦い |
第一次国府台の合戦 | 川越城の合戦 |
志賀城の合戦 | 郡山城の合戦 |
厳島の合戦 | 四万十川の合戦 |
今山の合戦 | 耳川の合戦 |
金ヶ崎城の合戦 | 一言坂の合戦 |
三方ヶ原の合戦 | 叡山焼き討ち |
江古田原沼袋の戦い② | 石山合戦 |
雑賀・根来合戦 | 第一次国府台の戦い② |
三木合戦 | 本能寺の変 |
九戸城の戦い | 文禄・慶長の役 |
関ヶ原の戦い | 田辺城の戦い |
長谷堂城の戦い |
※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂井洋子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。
日常生活を送っていて、親や教師に注意されたり、先輩や上司に苦言を言われたりすることってありますよね。
そういう時ってカチンとくるものです。
「お前に言われたくないわ」って思ったり、「わかっとるわ」と思ったり…
その時、反射的にムッとした態度で反応をしてしまいがちですが、それ、誰が得してますか?
自分の小さなプライドのために感情的な反応をしてしまえば、相手が自分に抱く印象は悪くなる一方です。
長い日本の歴史の中で、「小さなプライド」を自分でへし折ることができなかったために家を滅亡に導いた人物は何人もいますが、今回はそのうちの一例についてです。
というわけで今回は、大御所(おおごしょ)徳川家康が右大臣羽柴(豊臣)秀頼を攻めた「大坂冬の陣」から「自分のプライドを自分でたたき折る」ということを学ぼうと思います。
大坂冬の陣までの流れ
慶長(けいちょう)5年(1600年)、関ヶ原合戦(せきがはらがっせん)により豊臣(とよとみ)政権内での覇権を握った徳川内府家康は、大坂(おおさか)城に入城しました。
その時、豊臣氏当主である(当時)羽柴権中納言秀頼(※)の傅役(もりやく)・片桐市正(いちのかみ)且元は、申し開きのため内府を居所を訪れました。
※「羽柴(はしば)」は名字で、「豊臣」は氏(うじ)に当たります。織田信長や徳川家康など、安土桃山時代の人物は「氏」ではなく「名字」で呼称するのが普通です。このブログでは、それに合わせて豊臣家の人物についても基本的に「羽柴」を用います。
羽柴藤吉郎豊臣秀吉の名前について詳しく知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
そこで、関ヶ原を中心とした一連の反徳川の戦いについては「毛利(もうり)・石田(いしだ)が勝手にやったこと」であり、権中納言は一切関わっていないということを確認しました。
内府はこの時に豊臣政権内での第一の家臣としての地位を確立し、羽柴家(豊臣家)の直轄地220万石のうち160万石を各大名に分配し、羽柴家の領地は60万石となりました。
当時、内府のやりようによっては「毛利・石田にGOサインを出したのは秀頼」と言われてしまう可能性もあり、羽柴家としては何も言えなかったんですね。
その後、慶長8年(1603年)には内府は右大臣・征夷大将軍(将軍家)に任命され、武家の棟梁となります。
このことで徳川家が天下を取ったとする解釈が一般的ですが、一説によれば、このとき将軍家・家康は「公家の棟梁としての羽柴(豊臣)家と、それを支える武家の棟梁としての徳川(とくがわ)家」という構想を考えていたという話もあります。
つまり、羽柴(豊臣)家には一公家として存続してもらって、徳川家はその臣下として武家を束ねるという構想ですね。
2年後の慶長10年(1605年)には将軍職(しょうぐんしき)を三男・内大臣秀忠に譲り「大御所」となり、先に内大臣となっていた羽柴(豊臣)秀頼には右大臣(右府)を譲っています。
このとき羽柴家(豊臣家)は、将軍職が大御所から秀頼に譲られるものと思っていたのに、秀忠に譲られて落胆したという話もあります。
しかし、秀頼は右大臣を譲られているのであり、このことも「公家の棟梁・羽柴家、武家の棟梁・徳川家」構想を裏付ける傍証と言えます。
ただ、羽柴(豊臣)家が「一公家」として存続するには、居城の大坂城は大きすぎました。
そこで大御所家康はどうにかして羽柴家を大坂城から退去させたかったようです。
しかし、羽柴家内は大御所が羽柴家取りつぶしを狙っているのではないかと疑心暗鬼になっていたようです。
そして、大坂城には徳川家に一矢報いようとか、手柄を挙げて取り立ててもらおうとかの野心をもった浪人衆が集まり始めました。
さらに、キリシタンの派閥争いも絡んでいたようです。
キリスト教には大きく分けて二派あるのはご存知だと思います。
カトリックとプロテスタントですね。
先に日本で布教を開始したのはスペイン、ポルトガルのカトリックでした。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に漂着したウィリアム・アダムス(三浦按針)はプロテスタントのイギリス人でした。
三浦按針の登場する記事:
各合戦の動員人数について(8)アルマダの海戦
按針本人にはカトリックに対抗する気は全くなかったようですが、プロテスタントの国であるイギリス出身の按針が大御所に重用されていることを知ったカトリック勢力は過剰反応したようです。
按針に対抗し右府秀頼に近づくため、大坂に集まったとの説があります。
※そこに、伊達陸奥守政宗が裏で絡んでいたという話もあります。支倉六右衛門常長をして、徳川家に対抗すべくスペイン艦隊を呼びにやらせたという話ですが、信憑性はさほど高くないようです。
関連記事:
『真田丸』、伊達政宗の天下取り(第49回)
この時点で、右府秀頼を大坂城にいさせてはいけないいくつかの理由ができてしまったわけです。
・天下人の城である大坂城に拠れば、「徳川家に対抗できる」と夢を見てしまうこと
・羽柴直臣に「徳川憎し」の機運が根付き、疑心暗鬼になっていたこと
・反徳川の浪人が大坂に集まり始め、右府秀頼を推戴(すいたい)する機運ができていたこと
・徳川に重用された三浦按針に対抗すべく、カトリック勢が大坂に集まり右府秀頼を旗頭に担ごうとしたこと
こんな状況になってしまっては、羽柴家をそのまま大坂城にいさせるわけにはいかないですよね。
そして慶長19年(1614年)7月、有名な方広寺鍾銘事件(ほうこうじ・しょうめい・じけん)が起こります。
右府秀頼が作らせた方広寺の鐘に刻まれた銘が「国家安康(こっかあんこう)」となっていて、大御所家康の諱(いみな)を「家」と「康」に分断して呪詛したという言いがかりですね。
これに対し羽柴家は8月に片桐市正を駿府(すんぷ)に派遣するも、相手にされず。
市正は本多上野介正純、金地院崇伝らに次の三箇条を突き付けられます。
・右府秀頼の江戸(えど)への参勤
・淀君(よどぎみ)を人質として江戸へ送る
・右府秀頼が大坂を退去し、国替えに応じる
徳川家としてはこの三箇条のいずれかに応じるように言ったはずでしたが、羽柴家に伝わる頃には何の行き違いか、すべてに応じるようにという話となっていたようです。
これに淀君は激怒し、市正は過激派家臣に暗殺されそうになったため大坂城を退去します。
市正の大坂城退去によって、羽柴家は徳川家と交渉できる人物を失い、開戦が決定的となります。
10月には、毛利豊前守吉政(勝永)や真田左衛門佐信繁(幸村)ら大名級の浪人衆が大坂城に入城しています。
関連記事:
『真田丸』、幸村が信繁なら勝永は吉政では?(第41回)
同じ10月に、大御所家康が軍勢を率いて駿府を出発。
少し遅れて将軍家秀忠が江戸を出発しています。
大坂冬の陣
どの時点をもって「大坂冬の陣」の開戦とするかは諸説あるのですが、初めて戦闘が行われたのは11月5日の平野郷(ひらのごう)焼き討ちです。
大坂勢が、徳川方についた平野郷を焼き討ちして有力者を捕縛した事件ですね。
続いて16日には博労淵(ばくろうぶち)・野田(のだ)・福島(ふくしま)で大坂方が徳川方に砦を取られています。
「野田・福島」と言えば…:
ビジネスに活かす戦国合戦術⑭叡山焼き討ち
26日には鴫野(しぎの)・今福(いまふく)の戦いで徳川方としては上杉権中納言景勝が、大坂方としては木村長門守重成が大活躍しています。
上杉権中納言関連の記事:
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ
同関連記事:
合戦における戦術について⑩御館の乱
木村長門守関連の記事:
『真田丸』、木村重成に注目すべし!(第43回)
この時点までは大坂方が敗戦に次ぐ敗戦を重ね、砦や重要拠点を次々に徳川方に占拠されてしまいます。
続く12月4日には前田権大納言利家の子・権右少将利常と結城権中納言秀康の子である松平権右少将忠直が、勘違いにより真田丸(さなだまる)を奇襲。
真田左衛門佐の逆襲により大打撃を受けます。
前田権大納言関連の記事:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)
「真田丸」の戦い関連の記事:
『真田丸』、木村重成推し(第44回)
同関連記事:
『真田丸』、第一次上田合戦に勝てない(第45回)
「真田丸」の戦いにより正面突破が難しいと判断した大御所は、心理戦に出ます。
毎夜毎夜鬨(とき)の声を挙げさせ、女子供の多い大坂方に「今夜、徳川方が襲ってくるかもしれない」という恐怖心を与え精神的に疲弊させます。
さらに、天守に届く勢いで大砲を何発も撃たせプレッシャーを与える作戦に出ますが、そのうちの2発がなんと本当に天守に命中します。
大坂城内はこれで動揺し、情勢は一気に和睦へと向かいます。
条件は、
・(真田丸も含めて)二の丸、三の丸の破却
・外堀の埋め立て
です。
12月19日、ついに和睦が成立し、「大坂冬の陣」は終結しました。
この辺りの様子を描いたドラマ:
『真田丸』、解釈の違いって面白い(第46回)
自分のプライドを自分でたたき折る
さて、ここから得られる教訓ですが、「自分のプライドを自分でたたき折る」ということが学べるのではないかと思うんです。
上記のように、羽柴家が大坂城にいることは天下静謐(せいひつ)の観点では非常にリスキーでした。
そのため、この時点で大御所が羽柴家を攻めることは既定路線だった可能性はあります。
そうだとしても、開戦を防ぐ手立てはあったはずなんです。
この時羽柴家はどうすればよかったか?
そのお手本を、皮肉にも大御所家康が過去に示していたんですよ。
それは、天下人であった右府織田信長や、太閤(たいこう)羽柴秀吉と大御所の駆け引きです。
天正7年(1579年)、右府織田信長は、大御所家康の嫡男(ちゃくなん)・岡崎三郎松平信康に武田家への内応の疑いがあるとし、切腹を命じました。
※右府信長が実際にどこまで要求したかは諸説あり。
大御所家康は、徳川家の存続と息子の切腹を天秤にかける事態に陥ってしまったんです。
結局右府信長には逆らわず、粛々と切腹命令に応じています。
※大御所家康が岡崎三郎と対立していたとの説もあり。
岡崎三郎関連の記事:
「大きな欲」と「小さな欲」―山岡荘八『徳川家康』第6巻
同関連記事:
苦難の時代の幕開け―山岡荘八『徳川家康』第5巻
同関連記事:
『おんな城主直虎』、最後の2回でまたやられた(第46~50回)
また、太閤秀吉が関白になる前、徳川家は「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」で羽柴軍に勝利していますが、最終的には太閤の上洛要請に応じています。
関連記事:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない
当時のそれぞれの立場を考えてみましょう。
徳川家は織田右府の同盟者であり、義兄弟でした。
一方の太閤秀吉は織田右府の一家臣に過ぎず、家格で言えば徳川家が羽柴家に従う義理なんてなかったんです。
しかし、総力戦をやってしまったらおそらく徳川家は羽柴家に負けたと思われます。
そこで大御所家康はなんとかプライドを折り曲げて上洛し、太閤秀吉に頭を下げて臣従(しんじゅう)を誓ったんです。
「大坂冬の陣」前夜の右府秀頼の状況というのは、小牧長久手の時の大御所の状況に非常によく似ています。
家格としては当時は羽柴家は徳川家の主筋に当たりましたが、関ヶ原の戦いでもはや武力では徳川家にはかなわないことが証明されています。
ここでなんとかプライドをへし折って、右府秀頼が大御所に会いにいくなり、徳川家の提示した条件を呑むなりすべきだったんですね。
しかしプライドが勝ったのか、それができませんでした。
非常に残念でしたね。
こういったことって、スケールを小さくしたら日常生活でもよく起こっていると思うんですよ。
少し前に流行った『うっせぇわ』じゃないですが、親や教師、先輩や上司から注意を受けると「カチン」とくるもんなんですよね。
というのも、一方的に注意を受ける時というのは、「プライド」を頭から押さえつけられている状態になるので、反射的に反発心が起きてしまいます。
しかしそこで一歩引いて、「ここで反抗して、果たして自分の長期的利益になるものか」と考えてほしいんですよね。
相手も人間なので、反発されると嫌になるんですよ。
何も言いたくなくなるんです。
反発が続くと相手との関係がまずくなってしまうので、とりあえず何か言われた時点では「はい、わかりました」と言えた方がいいと思っています。
何か事情があるのなら、その後で冷静になってから説明すべきなんですよ。
で、結局ここでも必要になってくるのが、自分の感情を統制する技術です。
「感情」に言及している記事:
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない
同関連記事:
『青天を衝け』第18回―天狗党の乱について
同関連記事:
「大きな欲」と「小さな欲」―山岡荘八『徳川家康』第6巻
疲れている時など、つい家族に言われたことにカチンときてきつい言葉を返してしまうことがありますが、それは本当にやめた方がいいです。
みんなで感情を統制する技術を身に着け、ハッピーな世の中を実現していきましょう。
ということで、今回は「自分のプライドを自分でたたき折る」ということについて説明させていただきました。
まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!
以下もご覧ください!
○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・征夷大将軍 徳川 右大臣(内大臣。通称は次郎三郎) 源 朝臣 家康
せいいたいしょうぐん とくがわ うだいじん(ないだいじん。通称はじろうさぶろう) みなもとの あそん いえやす
・羽柴 右大臣(権中納言、内大臣。通称は藤吉郎) 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん(ごんのちゅうなごん、ないだいじん。通称はとうきちろう) とよとみの あそん ひでより
(文献上「羽柴」を名乗った例はありませんが、名字に該当するものは「羽柴」です)
・征夷大将軍 徳川 内大臣(通称不明) 源 朝臣 秀忠
せいいたいしょうぐん とくがわ ないだいじん(通称不明) みなもとの あそん ひでただ
・片桐 東市正(通称は助作) 源(豊臣) 朝臣 且元
かたぎり ひがしいちのかみ(通称はすけさく) みなもとの(とよとみの) あそん かつもと
・支倉(山口) 六右衛門(与市) 平 常長(長経)
はせくら(やまぐち) ろくうえもん(よいち) たいらの つねなが(ながつね)
・本多 上野介(通称は弥八郎) 藤原 朝臣 正純
ほんだ こうづけのすけ(通称はやはちろう) ふじわらの あそん まさずみ
・一色 (通称不明) 源 (諱不明)(字:以心 法名:崇伝)
いっしき (通称不明) みなもとの (諱不明)(あざな:いしん 法名:すうでん)
・毛利(森) 豊前守(通称不明) (氏不明) 朝臣 吉政(勝永)
もうり(もり) ぶぜんのかみ(通称不明) (氏不明) あそん よしまさ(かつなが)
・真田 左衛門佐(通称は源二郎、源次郎) 滋野(源) 朝臣 信繁(幸村)
さなだ さえもんのすけ(通称はげんじろう、げんじろう) しげのの(みなもとの) あそん のぶしげ(ゆきむら)
・上杉(長尾) 権中納言(弾正少弼。通称は喜平次) 藤原(平) 朝臣 景勝(顕景)
うえすぎ(ながお) ごんのちゅうなごん(だんじょうのしょうひつ。通称はきへいじ) ふじわらの(たいらの) あそん かげかつ(あきかげ)
・木村 長門守(通称不明) 源 朝臣 重成
きむら ながとのかみ(通称不明) みなもとの あそん しげなり
・前田 前権大納言(通称は又左衛門) 菅原 朝臣 利家
まえだ さきのごんのだいなごん(通称はまたざえもん) すがわらの あそん としいえ
・前田(松平) 右近衛権少将(幼名は犬千代) 菅原(源) 朝臣 利光(利常)
まえだ(まつだいら) うこんえごんのしょうしょう(幼名はいぬちよ) すがわらの(みなもとの) あそん としみつ(としつね)
・松平(結城、羽柴) 権中納言(通称不明) 源(藤原、豊臣) 朝臣 秀康
まつだいら(ゆうき、はしば) ごんのちゅうなごん(通称不明) みなもとの(ふじわらの、とよとみの) あそん ひでやす
・松平 右近衛権少将(幼名は仙千代) 源 朝臣 忠直
まつだいら うこんえごんのしょうしょう(幼名はせんちよ) みなもとの あそん ただなお
・織田 前右大臣兼前右近衛大将(通称は三郎) 平(藤原、忌部) 朝臣 信長
おだ さきのうだいじんけんさきのうこんえのだいしょう(通称はさぶろう) たいらの(ふじわらの、いんべの) あそん のぶなが
・関白 羽柴(木下) 太政大臣(通称は藤吉郎) 豊臣(平、藤原) 朝臣 秀吉
かんぱく はしば(きのした) だじょうだいじん(通称はとうきちろう) とよとみの(たいらの、ふじわらの) あそん ひでよし
・松平(徳川) 次郎三郎(岡崎三郎) 源 朝臣 信康
まつだいら(とくがわ) じろうさぶろう(おかざきさぶろう) みなもとの あそん のぶやす
☆武家の「通称」の普及を切に願います!
参考
大阪どっかいこ!
足短かおじさんのブログ
今日は何の日?徒然日記
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Sympohny 40 in G minor KV550 mov.1(交響曲第40番 第1楽章)/W. A. Mozart(モーツァルト)
※筆者による打ち込みです。
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Posted by 鷲谷 城州 at 20:00│Comments(0)
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