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2021年08月19日

田辺城の戦いに学ぶ―不都合な現実を直視する

田辺城
《令和6年1月8日更新》

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第48弾として、「田辺(たなべ)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】
江古田原沼袋合戦 権現山の戦い
第一次国府台の合戦 川越城の合戦
志賀城の合戦 郡山城の合戦
厳島の合戦 四万十川の合戦
今山の合戦 耳川の合戦
金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦
三方ヶ原の合戦 叡山焼き討ち
江古田原沼袋の戦い② 石山合戦
雑賀・根来合戦 第一次国府台の戦い②
三木合戦 本能寺の変
文禄・慶長の役 関ヶ原の戦い
第二次上田城の戦い


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂井洋子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

長い人生を生きていく中で、どうしても不都合な出来事というものは起こってしまいます。

病気やケガですとか、リストラに遭うとか、彼女にフラれるとか。

今回の新型コロナウイルス騒動にしてもそうです。

もちろん、ネガティヴな想像ばかりして不安に支配されてしまうのもよくないですし、不安が大きすぎて行動に出られないのは最もよくないとは思います。

ただ、これから起こる「不都合な現実」にきちんと向き合って、対策を打っている人はどれだけいるのでしょうか?
※もちろん、対策を打っているのに防ぎきれないときもあります。

今回は、細川幽斎が小野木縫殿助重勝らを撃退した「田辺城の戦い」から「不都合な現実を直視する」ということを学ぼうと思います。


田辺城の戦いまでの流れ


天正(てんしょう)8年(1580年)、細川幽斎こと長岡兵部大輔藤孝は主君である前右大臣・右近衛大将織田信長(以降「織田右府」)の命を受けて丹後(たんご)攻略へ向かいます。

惟任〔明智〕日向守光秀の助力を得てなんとか南丹後の平定に成功した長岡兵部は、そのまま南丹後を領有し、宮津(みやづ)城を築城してそこを居城とします。

天正8年ごろの織田右府の動きを知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
『麒麟がくる』第43回―波多野家について

天正10年(1582年)、本能寺(ほんのうじ)の変が起こると長岡兵部は明智日向守の誘いを断り、右府の菩提(ぼだい)を弔うという理由で剃髪(ていはつ)
「幽斎玄旨」を名乗り嫡子・越中守忠興に家督を譲り、宮津城を辞して田辺城に隠居します。

本能寺の変についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

その後、関白羽柴太政大臣秀吉に従い数々の戦に出陣し武功を上げますが、徳川内府家康とも親交を深めています。

慶長(けいちょう)5年(1600年)6月の徳川内府の会津(あいづ)征伐時には嫡子・越中守忠興が内府に従い会津へ向けて出陣しており、細川家〔長岡家〕の兵の大半は国許にはいませんでした。

関連記事:
関ヶ原の戦いに学ぶ―相手に納得感を与える

7月には石田治部少輔三成が挙兵し、会津に出陣した諸大名の妻子を人質として大坂(おおさか)城に集めようとしましたが、幽斎の嫁であるガラシャは自害(※)しました。
※ガラシャはキリシタンであり、キリシタンは自害を禁止されていたので厳密には家臣に自分を殺させています。

これにより、石田方との交戦を覚悟した幽斎は、田辺城を残して領内の宮津城以下各城を焼き払い、田辺城に籠城しました。
その兵力は、城の周辺の有志の民を合わせてわずか500。

圧倒的な寡兵(かへい)でした。


細川ガラシャ関連の記事:
『真田丸』、徳川家康が慌てすぎ(第35回)

同関連記事:
歴女にクローズアップしてほしい武将





田辺城の戦い


石田治部は、幽斎の予想通り丹後に軍勢を仕向けてきました。

大将は丹波福知山(たんば・ふくちやま)城主・小野木縫殿助重勝で、1万5,000の大軍でした。

福知山の登場する記事:
軽く旅行記

田辺城は見た目以上に堅い城だったようで、力攻めでは落とすことができませんでした。

そのため小野木は大砲を打ち込みましたが、城は落ちません。
※そもそも、城を力攻めで落とすことは非常に難しいです。

そうこうしているうちに守勢は50日間堪えぬきますが、その頃、食糧や鉄砲の弾などが底をつき始めました。

このままでは落城かと思われたその時、この戦いに「待った」がかかりました。

その使者を遣わしたのは時の帝(みかど)・後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王でした。

なぜ天皇家から使者が来たのか?

長岡幽斎は、三条西内大臣実枝〔実澄〕より『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の解釈の秘伝である「古今伝授(こきんでんじゅ)を受けていました。


三条西内府の登場する記事:
『麒麟がくる』第39回―原田備中守について

同関連記事:
『麒麟がくる』第36回―足利家について(1)


その「古今伝授」は幽斎からは正式には誰にも伝えられていなかったため、幽斎の死によりそれが失われることを恐れた智仁親王が幽斎に降服を勧めたのです。

しかし幽斎は拒絶。

幽斎は二度目の使者に、智仁親王に「古今伝授」を済ませたという証書を渡し、討ち死にを覚悟します。

それを聞いて朝廷は大慌てとなりました。

ついに後陽成天皇の勅使(ちょくし)として故・三条西内府の孫である参議実条、烏丸蔵人頭光広らを遣わし、長岡幽斎と小野木方双方に停戦を命じます。

これにより小野木勢は囲みを解き、幽斎は城を明け渡し、五奉行(ごぶぎょう)・前田玄以の子で小野木らとともに城を囲んでいた前田主膳正茂勝の居城・丹波亀山(かめやま)城に預けられ、関ヶ原(せきがはら)合戦後は京都で暮らしたとされます。

この時小野木勢が攻城戦に苦戦した理由として、田辺城が堅城だったことや籠城(ろうじょう)勢が頑張ったこと以外に、寄せ手に幽斎の弟子が多くいたことが影響していると言われています。

幽斎の身柄を預かった前田主膳もその一人だったそうです。

また、同じく弟子であった谷出羽守衛友などはまともに戦う気がなく、田辺城へ向けて空砲を撃っていたという話もあります。

この戦いが終わったのは慶長5年(1600年)9月13日。

奇しくも、美濃・関ヶ原にて徳川内府と石田治部が決戦したのは9月15日。

田辺城を退いた小野木らが関ヶ原に行くにはあまりに時間がなく、1万5,000の兵は本戦には間に合いませんでした。

※余談①:この田辺城の籠城では『麒麟がくる』で活躍した三淵弾正左衛門尉藤英の遺児である伯耆守光行も籠城しており、彼は戦後、内府にその奮戦を評価されて旗本となっています。

※余談②:留守中に領国を攻められた幽斎の子・越中守は関ヶ原の戦い後、主将だった小野木縫殿助の居城・福知山城を囲み、開城した縫殿助を自害させています。

※余談③細川家はこの当時「長岡」の名字を名乗っていましたが、戦後、「細川」に復名(ふくみょう)しています。



三淵弾正の登場する記事:
麒麟がくる』第38回―斎藤内蔵助について

同関連記事:
『麒麟がくる』第37回―足利家について(2)

同関連記事:
『麒麟がくる』第30回―三淵氏の来歴





細川幽斎が負けなかった要因


ここで、長岡幽斎〔細川幽斎。以降は「細川」で統一〕の負けなかった要因について考えてみましょう。

一般的には、幽斎が「古今伝授」を受けていた重要な人物であり、その才能を惜しんだ朝廷が「勅使」という形で介入したことによると言われていますよね。

それはそうだと思います。

いくら智仁親王が「古今伝授」の証明を受けたとは言え、それは戦時の緊急的な判断かもしれません。

さらに、「古今伝授」さえ保存されればいいというわけでもなく、幽斎その人自体も朝廷や前田主膳、谷出羽守ら弟子たちから大事にされていたのだと思います。

しかし、ここで「誰もが認める高い教養を身に着ければいい」と言ったって、多くの人はできませんよね?

それはそれで目指すべきではあると思うのですが、そんな何十年もかかりそうなことをポイントとして取り上げようとは思いませんw

では、ここで取り上げる「細川幽斎が負けなかった要因」とは何なのか。

それは、もう題名に書いちゃってるのでお分かりかと思いますが、

不都合な現実を直視する

という力です。

では、幽斎はどの時点でその力を発揮したのか?




不都合な現実を直視する


それは、嫁であるガラシャが石田治部の人質とされるのをよしとせず、家臣に自分を殺させた時点と推察されます。

その知らせを聞いた幽斎は、上記のように石田方が丹後へ攻め寄せてくることを読み、本城であった宮津城以下、田辺城以外の領内の城に火をかけて田辺城に籠っています。

この判断が、自分にはできますか?

ということを想像してみてください。

現実を直視することで、これから起こる災禍を読み取って、大切な財産である城郭を焼き払って物的、人的資源を田辺城ひとつに集中させ、見事に乗り切ったんです。

この「これから起こる災禍を読み取る」というのはある程度経験が必要なので難しいかもしれません。

ただ、不都合な現実を直視して事前にしっかり対策を打った点が、細川幽斎の能力の最も見習うべき点だと思うのです。

今回の新型コロナウイルス騒動にしても、しっかり現実を直視して、飲食や外出による娯楽を切り捨てて、自分がいちばん大切なものを守る選択ができた人がどれだけいたのかな、という疑問があります。
※もちろん、きちんと対策をしていたのに感染してしまった人もいると思います。

「歴史」を客観的に第三者の目線で評価することも必要ですが、このような感じで、当事者の目線に立って、果たしてそれが自分にできるのかと考えることはとても大切です。

また、そこで「できない」と思考停止してしまうのではなく、自分の今の状況だったらどうなるのかとシミュレーションすることにも、歴史学習の大きな意義があると思うんです。

ということで、今回は「不都合な現実を直視する」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・細川〔長岡〕 兵部大輔〔通称は与一郎〕 源 朝臣 藤孝〔幽斎玄旨〕
ほそかわ〔ながおか〕 ひょうぶのたゆう〔通称はよいちろう〕 みなもと の あそん ふじたか〔ゆうさいげんし〕
・小野木 縫殿助〔通称は清次郎〕  (氏不明) 朝臣 重勝〔重次、公郷、公知〕
おのぎ ぬいのすけ〔通称はせいじろう〕 (氏不明) あそん しげかつ〔しげつぐ、きみさと、きみとも〕
・織田 前右大臣兼前右近衛大将〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ さきのうだいじんけんさきのうこんえのだいしょう〔通称はさぶろう〕  たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・明智〔惟任〕 日向守〔通称は十兵衛〕 源〔大神〕 朝臣 光秀
あけち〔これとう〕 ひゅうがのかみ〔通称はじゅうべえ〕 みなもと〔おおが〕 の あそん みつひで
・細川〔長岡〕 越中守〔通称は与一郎〕 源 朝臣 忠興
ほそかわ〔ながおか〕 えっちゅうのかみ〔通称はよいちろう〕 みなもと の あそん ただおき
・関白 羽柴〔木下〕 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣〔平、藤原〕 朝臣 秀吉
かんぱく はしば〔きのした〕 だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ〔たいら、ふじわら〕 の あそん ひでよし
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・石田 治部少輔〔通称は佐吉〕 下毛野〔平〕 朝臣 三成
いしだ じぶのしょう〔通称はさきち〕 しもつけの〔たいら〕 の あそん みつなり
・誠仁〔諡号・後陽成帝〕
さねひと〔諡号・ごようぜいのみかど〕
・八条宮智仁
はちじょうのみやとしひと
・三条西 内大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 実枝〔実世、実澄〕
さんじょうにし ないだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん さねき〔さねよ、さねずみ〕
・三条西 参議〔通称不明〕 藤原 朝臣 実条
さんじょうにし さんぎ〔通称不明〕 ふじわら の あそん さねえだ
・烏丸 蔵人頭〔通称不明〕 藤原 朝臣 光広
からすま くろうどのとう〔通称不明〕 ふじわら の あそん みつひろ
・前田 主膳正〔通称は彦四郎〕 藤原 朝臣 茂勝〔秀利〕
まえだ しゅぜんのかみ〔通称はひこしろう〕 ふじわら の あそん しげかつ〔ひでとし〕
・谷 出羽守〔通称は甚太郎〕 藤原? 朝臣 衛友
たに でわのかみ〔通称はじんたろう〕 ふじわら? の あそん もりとも
・三淵 弾正左衛門尉〔または弥四郎〕 源 藤英
みつぶち だんじょうさえもんのじょう〔またはやしろう〕 みなもと の ふじひで
・三淵 伯耆守〔通称不明〕 源 朝臣 光行〔光之〕
みつぶち ほうきのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん みつゆき〔みつゆき〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
城郭と歴史雑学
郷土の歴史と古城巡り
今日は何の日?徒然日記

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