2021年06月20日
文禄・慶長の役に学ぶ―「叱るマネージメント」は下策である
Sungho SongによるPixabayからの画像
《令和5年12月5日更新》
皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第45弾として、「文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。
【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】 | |
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江古田原沼袋合戦 | 権現山の戦い |
第一次国府台の合戦 | 川越城の合戦 |
志賀城の合戦 | 郡山城の合戦 |
厳島の合戦 | 第二次月山富田城の合戦 |
四万十川の合戦 | 今山の合戦 |
金ヶ崎城の合戦 | 一言坂の合戦 |
三方ヶ原の合戦 | 叡山焼き討ち |
江古田原沼袋の戦い | 石山合戦 |
雑賀・根来合戦 | 第一次国府台の戦い② |
三木合戦 | 本能寺の変 |
※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の松永義弘氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。
仕事をしていてミスが発生することってありますよね。
自分が管理職の立場である場合、部下がミスをした時、どう対応しますか?
そのミスが怠慢によって発生したものなのか、全力を尽くした上でのミスなのかにもよりますが、「ミスが発生した」という事実を突きつけられたとき、つい叱ってしまう人は多いのではないでしょうか?
でも、それって得策なのでしょうか?
叱ることでミスは減るのでしょうか?
というわけで今回は、太閤(たいこう)羽柴秀吉が朝鮮(ちょうせん)に出兵した文禄・慶長の役から「『叱るマネージメント』は下策である」ということを学びます。
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。
関白秀吉の戦い:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない
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山崎の戦いに学ぶ―大事なことをひとつ決める
文禄・慶長の役までの流れ
天正(てんしょう)18年(1590年)に小田原征伐(おだわらせいばつ)、奥州仕置(おうしゅうしおき)を終えた関白・羽柴太政大臣秀吉は、すぐさま唐(から)入り〔明(みん)への遠征〕の準備を始めました。
小田原征伐について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
小田原征伐に学ぶ―相手に口実を与えない
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『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
翌天正19年(1591年)には肥前(ひぜん)に名護屋(なごや)城を築城します。
※この頃東北(とうほく)では九戸(くのへ)城の戦いが起こっています。
関連記事:
九戸城の戦いに学ぶ―事態を過小評価しない
天正20年(1592年)には遠征軍を編成し、4月には小西摂津守行長の部隊が渡海しています。
小西摂津守の登場する記事:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(13)ー戦国大名の農民支配について
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『真田丸』、竹本義太夫はそっとしておくべきか?(第37回)
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朝鮮での戦い
小西(こにし)隊は釜山(ふざん/プサン)、東萊(とうらい/トンネ)城を制し、続いて加藤主計頭清正、黒田甲斐守長政ら諸将が渡海しています。
加藤主計頭の登場する記事:
司馬遼太郎『関ヶ原』下
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黒田甲斐守の登場する記事:
司馬遼太郎『関ヶ原』中
5月2日には首府・京城(けいじょう〔現在のソウル〕)に入城しました。
開戦から21日という短期間で首府を占領したのです。
しかし、水軍の戦況は芳しくなく、5月7日には加藤左馬助嘉明、藤堂和泉守高虎、九鬼大隅守嘉隆らの水軍が李舜臣(り しゅんしん/イ スンシン)率いる朝鮮水軍に敗退しています。
加藤左馬助の登場する記事:
『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち
藤堂和泉守の登場する記事:
一宮城の戦いに学ぶ―キレた勢いで行動してはいけない
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ここで日本軍は補給路を断たれたのですが、陸上部隊は先に逃亡していた朝鮮王族を追撃し平壌(へいじょう/ピョンヤン)へ進軍。
小西摂津の部隊が平壌を陥落させます。
※朝鮮王はまたしても逃亡し、明に救援を求めます。
また、後続の部隊が朝鮮各道へ展開し、朝鮮全土を制圧します。
その後日本軍は進撃を止め、朝鮮平定に力を入れますが、明けて文禄2年(1593年)正月、ついに明軍が平壌攻撃を始めます。
小西摂津はたまらず京城へ後退し、明軍は進撃を続けますが京城の北にある碧蹄館(へきていかん/ピョクチェグァン)で小早川侍従隆景らに撃退され戦意喪失します。
小早川侍従の登場する記事:
『青天を衝け』第3回―平岡家について
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厳島の合戦―相手の心理を読み、周到に準備する
これによって、明と日本の和平交渉が始まります。
翌文禄3年(1594年)にかけて明と日本で使者によるやり取りを行いました。
文禄4年(1595年)には明使が京城に到着したことにより講和が成ったと判断した太閤秀吉は、朝鮮にいた諸将の帰国を許可します(以上、文禄の役)。
※秀吉は文禄元年(1592年)末に関白職を甥の左大臣秀次に譲り、太閤と呼ばれるようになります。
さらに翌年文禄5年(1596年)、大坂(おおさか)城にて明使が関白秀吉に謁見しますが、なんとその口上を聞いた太閤が激怒し、和平交渉は決裂します。
※和平の条件が太閤の提示したものとはかけ離れており、明が太閤を日本国王に封ずる、つまり太閤を明の家臣として認める等の屈辱的内容だったと言います。
交渉の決裂を受けて、太閤は慶長2年(1597年)に再征を行います(慶長の役)。
この時の日本軍は文禄の役程の士気がなく、また、朝鮮側も文禄の役の反省を活かして朝鮮南部の防備を固めており、日本軍は思うように進軍ができませんでした。
※水軍については朝鮮水軍の派閥争いによる混乱のため、日本軍は大勝しています。
そして慶長3年(1598年)8月の太閤の死により日本軍は撤退。
7年の長きに渡った「文禄・慶長の役」が終結します。
外交交渉の混乱
この戦いは虚偽報告のオンパレードだったと言われています。
そもそも、最初の交渉の時点で混乱の様相を呈しています。
朝鮮が対馬(つしま)に服属していると誤解していた関白秀吉は、当初朝鮮国王に朝貢(ちょうこう)に来るように要求しますが、実際は服属はしていませんでした。
※これは対馬国主・宗対馬守義智のブラフだったという話があります。
宗対馬守は関白秀吉の要求に苦慮しますが、朝鮮側に関白の日本統一の祝いに通信使(つうしんし)をよこすようにと伝え、なんとか使者の来日に漕ぎつけます。
しかし、関白秀吉の方では朝鮮の使者を服属の使者として扱ったため、使者は激怒。
また、朝鮮は朝鮮で政変の真っ最中であり、「日本が攻めてくる」とした一派を別の一派が退け、まともな対策ができていなかったところで実際に日本が攻めてきたため大混乱を起こしたと言います。
その後、文禄の役の和平交渉時には小西摂津らが明の沈惟敬(しん いけい/シェン ウェイジン)らと共謀し、日明両側に虚偽の和平条件を提示しています。
簡単に言うと、明側には日本が降服すると報告し、日本側には明が降服すると報告したのです。
結局、明の正使が日本に到着して太閤秀吉の要求を全く無視する、つまり小西や沈の偽装がなされていない状態の条件を伝えてしまったため、太閤は激怒。
慶長の役が始まります。
「叱るマネージメント」は下策である
というわけで、この「文禄・慶長の役」の失敗を一言でまとめるのは非常に難しく、また、上記概略で説明しきれていない内容もあるため、「役」そのものの評価をすることは避けることにします。
しかし、これを抽象化し、現代の日常生活を生きる我々の教訓とすることはできます。
そもそもの混乱の元凶が宗対馬守や小西摂津守による虚偽報告なのですが、そのまた要因となったのが、「関白(太閤)の怒りを恐れた」ということがあると思っています。
朝鮮が対馬に服属していると思っていた関白〔太閤〕に真実を告げたら、おそらく関白〔太閤〕は激怒し、下手をすれば宗対馬守の首は飛びます。
また、小西摂津らの虚偽報告がバレた時、実際に太閤は激怒し、危うく小西摂津の首が飛ぶところでした。
※前田権大納言利家や淀殿(よどどの)の説得により、死罪を免れています。
以上の内容のままだと非日常的ですが、これを抽象化して上司への報告と捉えると教訓を得やすいと思います。
これは、部下側というより上司側の教訓ですね。
昔は部下や後輩、子供の教育には「叱る」ことが重要とされていました。
何かミスがあった場合、「どうなってるんだ!」と一喝し、とうとうと説教を聞かせる。
しかし、最近になってこのやり方が上策ではないと言われるようになっていますね。
なぜかというと、人は、「叱られる」という経験をすると「叱られない」ことに全力を尽くすようになるからです。
人間はどうしてもミスをしてしまいますが、それが発覚すると「叱られる」。
そうなると「叱られ」たくないから、ミスを報告しなかったり虚偽報告をするようになるんですね。
この報告遅延や虚偽報告によって、小さなミスだったはずのものが大きな問題に発展します。
法律違反、会社を揺るがすような事件、人命が関わる事件になってしまった例を挙げれば枚挙にいとまがないと思います。
※筆者の身近なところでも、法律違反レベルの問題が発生したことがあります。筆者は直接かかわっていませんでしたが、これも報告遅延・虚偽報告が原因でした。
こういった報告遅延・虚偽報告を生むくらいだったら叱るのをやめた方がいいですよね。
もちろん、すべての場合で叱ってはいけないわけではなく、場合によっては叱った方が得策である時もあります。
しかし多くの場合、「叱られる」ことによって人は委縮し、問題の本質よりも「自分が叱られないこと」を優先して動くようになってしまいます。
人は必ずミスをします。
ミスを「叱る」のではなく、ミスをしない仕組み、もしくはミスを拾える仕組みを作ることが真のマネージメントだと思います。
ということで、今回は「『叱るマネージメント』は下策である」ということについて説明させていただきました。
まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!
以下もご覧ください!
○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・関白 羽柴〔木下〕 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣〔平、藤原〕 朝臣 秀吉
かんぱく はしば〔きのした〕 だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ〔たいら、ふじわら〕 の あそん ひでよし
・小西 摂津守〔通称は弥九郎〕 藤原 朝臣 行長
こにし せっつのかみ〔通称はやくろう〕 ふじわら の あそん ゆきなが
・加藤 主計頭〔肥後守。通称は虎之助、虎之介〕 藤原 朝臣 清正
かとう かずえのかみ〔ひごのかみ。通称はとらのすけ、とらのすけ〕 ふじわら の あそん きよまさ
・黒田 甲斐守〔通称は吉兵衛〕 源 朝臣 長政
くろだ かいのかみ〔通称はきちべえ〕 みなもと の あそん ながまさ
・加藤 左馬助〔通称は孫六〕 藤原 朝臣 嘉明
かとう さまのすけ〔通称はまごろく〕 ふじわら の あそん よしあきら
・藤堂 和泉守〔通称は与右衛門〕 藤原 朝臣 高虎
とうどう いずみのかみ〔通称はようえもん〕 ふじわら の あそん たかとら
・九鬼 大隅守〔通称不明〕 藤原 朝臣 嘉隆
くき おおすみのかみ〔通称不明〕 ふじわら の あそん よしたか
・関白 羽柴〔木下、宮部、三好〕 左大臣〔通称は孫七郎〕 豊臣〔源〕 朝臣 秀次〔吉継、信吉〕
かんぱく はしば〔きのした、みやべ、みよし〕 さだいじん〔通称はまごしちろう〕 とよとみ〔みなもと〕 の あそん ひでつぐ〔よしつぐ、のぶよし〕
・宗 対馬守〔通称は彦三郎〕 惟宗〔平〕 朝臣 義智
そう つしまのかみ〔通称はひこさぶろう〕 これむね〔たいら〕 の あそん よしとし
・前田 権大納言〔通称は又左衛門〕 菅原 朝臣 利家
まえだ ごんのだいなごん〔通称はまたざえもん〕 すがわら の あそん としいえ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!
参考
摂津守のブログ
小松格の『日本史の謎』に迫る
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記事を読んでいただき、ありがとうございました!他の記事もぜひご覧下さい。
次回は『青天を衝け』第12回について。
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今期イチオシ曲!ぜひ聞いてください!
I Feel Glad (BGM Ver.) / Joshu Washiya
※筆者が中学生の時に作詞・高校生の時に作曲した曲を平成22年に自作RPGのBGM用に再アレンジしたものです。
第二次国府台合戦に学ぶ―小さな勝ちに酔わない
大坂夏の陣に学ぶ―覚悟して手放す
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない
田辺城の戦いに学ぶ―不都合な現実を直視する
大坂夏の陣に学ぶ―覚悟して手放す
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない
田辺城の戦いに学ぶ―不都合な現実を直視する
Posted by 鷲谷 城州 at 20:00│Comments(0)
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