さぽろぐ

  映画・TV・音楽  |  その他の都道府県・海外

ログインヘルプ


2020年06月25日

ビジネスに活かす戦国合戦術(20)岩村城の合戦

春日山城


皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第20弾として「岩村城の合戦」について書きます。

第1回 今山の合戦    第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦   第4回 小豆坂の合戦
第5回 長良川の合戦   第6回 桶狭間の合戦
第7回 稲葉山城の合戦  第8回 金ヶ崎城の合戦
第9回 姉川の合戦    第10回 二俣城の合戦
第11回 一言坂の合戦  第12回 三方ヶ原の合戦
第13回 野田城の合戦  第14回 叡山焼き討ち
第15回 一乗谷城の合戦 第16回 小谷城の合戦
第17回 第一次高天神城の合戦
第18回 長篠の合戦
第19回 第二次高天神城の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の萩原裕雄氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!


<三度にわたる攻防戦>


舞台になったのは美濃東部にある岩村城(岐阜県恵那市)。

この岩村城付近は斎藤家臣である加藤遠江守光泰などと同じ、加藤次藤原景廉を先祖とする遠山氏が勢力をもっていました。

遠山氏は右大将源頼朝に重用された加藤次以来、長らく岩村付近に勢力をもっていました。

下掲地図を見ていただけると分かると思うのですが、この東美濃の辺りというのは南信濃・三河に通じる地域で、東山道ルートの交通の要衝となっておりました。
※今でもこの付近を中央道が通っていますね。技術が発達しても、陸路のルートはあまり変わらないものです。

それだけ重要な土地ですから、甲斐・信濃を領する武田軍と尾張・美濃を領する織田軍は三度にわたって攻防戦を繰り広げます。

<遠山氏の立場>


はじめは独立勢力的な性格をもっていた遠山氏ですが、弘治元(1555)年、南信濃を手にした武田大膳大夫晴信(のちの信玄)による侵攻を受けます。

遠山氏は本家の岩村遠山氏のほかに北部苗木城に拠る苗木遠山氏、南部の明知城に拠る明知遠山氏などのいくつかの流れに分かれます。

上記、武田大膳の侵攻により遠山氏のいくつかは武田氏に降ります。

しかしある程度の独立は保っていたようで、翌弘治2(1556)年の斎藤新九郎高政による明智城攻めのときに、遠山氏のいくつかの勢力は新九郎に加勢しています。

また織田氏との関係も良好で、時期は不明ですが、織田備後守(弾正忠)信秀の妹であり織田上総介信長の叔母であるおつやが岩村遠山氏の当主大和守景任に嫁いでいます。
※この婚姻は、尾張を統一してすらいない備後守の時代に結ばれたとの説もあり、だとしたら備後守の先見の明に驚きます。

この、遠山大和守とおつやとの婚姻が、のちに悲劇を生むことになります。

<武田軍による侵攻>


武田家に浸食されつつも、何とか半独立を保ち、織田氏と武田氏との同盟の仲介役を担っていた遠山氏に転機が訪れます。

苗木遠山氏が断絶したことを受けて、織田上総介は、織田氏の血を引く飯羽間遠山氏の子を苗木遠山氏へ養子に行かせます。

また、本家岩村遠山氏の当主大和守が跡継ぎがいないまま病死したことによって本家も断絶の危機に立たされました。

そこで上総介は、自身の五男である御坊丸(のちの源三郎勝長)を養子として岩村城に送ります。

↓織田弾正忠家略系図
※クリックで拡大されます。
織田弾正忠家略系図(おつやの方)


またこのころ、比叡山焼き討ちや足利将軍家義昭の呼びかけによって、武田信玄は織田家と敵対し始めていました。

織田氏による上記の遠山氏懐柔により織田方とみなされた遠山氏は、武田家臣で信濃飯田城主であった秋山伯耆守虎繁の侵攻を受けることとなります。

<第一次岩村城の合戦>


元亀3(1572)年10月、飯田城に拠る秋山伯耆守は主君武田信玄の遠江侵攻、同じ武田家臣の山県三郎兵衛の三河侵攻に合わせて東美濃岩村城を目指しました。

当主、遠山大和守の病死により城主不在となっていた岩村城ですが、大和守の正室であり織田上総介の叔母であるおつやが指揮を執り、秋山伯耆守に決死の抵抗を試みました。

遠山氏は去る元亀元(1570)年にも秋山伯耆守の攻撃を受けていて、主だった武将が討ち死にするなど結構な打撃を受けていました。

激戦の末、岩村城は秋山伯耆守の包囲網に降ってしまいます。

その条件のひとつが、

「おつやを秋山伯耆守の正室とすること」

でした。

秋山伯耆守はこの条件を記した勧告文書を岩村城に送る間に本気でおつやに恋するようになり、その熱烈なラブレターを受け取ったおつやも伯耆守に恋するようになったといいます。

この降服によって織田上総介改め弾正大弼(だんじょうのだいひつ)は、重要拠点であった岩村城を失ってしまいます。

加えて、五男御坊丸も人質として甲府に送られる、という痛手を受けます。

織田弾正は激怒したといいます。

弾正は同年12月には嫡子・勘九郎信重(信忠)の軍を送り込み岩村城奪還を試みますが、敵わず。
※第二次岩村城の合戦。

そして、月日が流れます。
※参考:同時期に武田信玄の本隊によって二俣城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦が行われています。

<織田信長の岩村城奪還>


元亀4(1573)年の野田城の合戦後に武田信玄が死んだことにより、跡を継いだ武田四郎勝頼の猛攻が始まりました。

天正2(1574)年1月、武田軍は軍を岩村城からさらに進め、明知城が落城。
※大河ドラマに登場する「明智城」とは別の城です。

4月には軍を三河に進め、足助城も落城しました。
※その後、5月に第一次高天神城の合戦が勃発。


武田四郎により更なる圧迫を受けていた織田氏・徳川氏ですが、翌天正3(1575)年、転機が訪れます。
5月に起こった長篠の合戦によって武田軍は壊滅、山県三郎兵衛、馬場美濃守等主だった武将を失います。

勢いを得た織田弾正大弼改め右大将(うだいしょう)は、再び嫡子・勘九郎改め秋田城介(あきたじょうのすけ)信忠を総大将とした大軍を岩村城に向かわせます。

↓岩村城の合戦時の周辺図(広域)
※クリックで拡大されます。
岩村城の合戦(広域図)

長篠の合戦の大敗によって武田家を見限った武将もいたとは思いますが、遠山一族の多くは心の底から武田家に臣従していたわけではなかったようです。

秋田城介の侵攻によって、岩村城を除くほとんどの城砦が織田方に呼応します。

↓恵那郡十八砦(鶴ヶ城以外の青字の城砦が織田家に呼応した「十八砦」です)
※クリックで拡大されます。
恵那郡十八砦


上記地図を見ると分かると思うのですが、岩村城は完全に包囲されております。

武田四郎は援軍として岩村に向かいますが、伊那高遠城で雪に阻まれ進軍できず。
※上掲地図を見ると、進軍できていたとしても美濃に入ったところで進路を阻まれているので、岩村城には到着できなかったものと思われます。

岩村城は耐え切れずに落城。
秋山伯耆守とおつやの方は助命を条件に降服しますが、織田右大将は彼らを岐阜に連行しました。

そして、長良川畔にて両名とも逆さ磔の刑にて処刑。

おつやの方と、秋山伯耆守による色恋による裏切りを許せなかったからだと言います。
※一説によると、長篠の合戦前夜に、人質として甲府に留め置かれていた徳川家臣・奥平美作守貞昌(信昌)の妻子が処刑されたことへの報復とも言います。

これにて、織田家の支配下に収まった岩村の地は二度と武田家の支配を受けることはありませんでした。
※以上が第三次合戦です。

<ビジネスに活かす要素は?>


この合戦では秋山伯耆守の敗因を見ていきたいと思います。

まずは長篠の合戦にて武田軍本隊が大ダメージを受けていたことによりますね。

ただ、その要因は第一次高天神城の合戦長篠の合戦で言及しているので、今回は岩村城周辺の局地的な要因についてみていきましょう。

上記解説に書いているのでお分かりかと思いますが、秋山伯耆守の敗因はずばり「恵那郡十八砦の離反」ですね。

第二次高天神城の合戦などでも述べていますが、合戦というのはミクロの視点での作戦や各兵たちの頑張りも重要なのですが、それ以前に勝敗を左右するのがマクロの視点で見た「戦略」です。

囲碁は拠点攻略戦をうまく抽象化したゲームだと思いますが、現実の拠点攻略戦は囲碁そのもの。

いかに味方の補給線をつないで、敵の補給線を断って囲むかが重要です。

そういった意味で、「恵那郡十八砦」が織田方についた時点で秋山伯耆守の命運は決まっておりました。

しかし、それを招いたのはそれ以前の伯耆守の行動にあると思います。

遠山諸家を心服させられていなかったんでしょうね。

遠山諸家はもともと武田家にいい印象をもっていなかったのかもしれません。

しかし、ここからは僕の推測ですが、秋山伯耆守の岩村城の落とし方に問題があったのではないでしょうかね。

これ、おつやの方が伯耆守と結婚せず、人質として御坊丸とともに甲府に送られていたら少し違っていたかもしれません。

もしかしたら、僕らが抱くのは現代的感覚なので、当時の感覚とは違ったかもしれません。
それに、秋山伯耆守との結婚を決断したおつやの方にも相当な苦悩があったものとも思われます。

しかし、「敵方の城主を妻とする」ってドン引きしませんか?

仮に自分が遠山家の武将で、それまで討ち死にするつもりで戦っていたのだとしたら、秋山伯耆守にもおつやの方にもいい印象もちませんよね。

色恋で決着かよ、と。
(政治的判断が多分に含まれた「色恋」ですが、あくまでも遠山家の武将の視点ということで)

現に織田弾正(当時)も激怒していることですし、当時の遠山諸家も反感をもったのではないでしょうか。

ということで、今回のポイント。

・後ろ指さされそうなことはしない!

これですね。

これが一般人の恋愛だったら大恋愛で終わるんです。
ですが、この二人は一軍の大将同士。

批難の的になったかもしれません。

ここで、「後ろ指さされる」という点で抽象化して、話を進めますね。

以前僕が勤めていた会社の社長さんが、取引相手に内緒でこそこそと契約違反行為をしていたことがあったんです。

一般社員としては社長の行動に干渉できませんでしたが、社長のそういう姿を見てしまうと、その社長は僕らにも内緒で裏切り行為をしているのではないかと勘繰ってしまいますよね。

秋山伯耆やおつやのやったことはここまで悪いことではありませんが、もしかしたら遠山家の武将たちは、自分たちが本当についていっていい人なのか疑問に思ったのかもしれません。

ちょっとした反社会的行為や不誠実な行為によって、すべてが信用できなくなってしまうことがあります。

日常の小さなことについて考えてみると、思わず不誠実な行動をとってしまうことってあると思うんです。
しかし、結局のところそれは自分のためにはならない、当然、人のためにもなりません。

それを見ている人や、不誠実な雰囲気を感じ取っている人は案外いるものです。

人間ですから、不誠実な行動の一つや二つ、取ってしまうことはあります。
しかし、そういうときには自分の不誠実さを素直に受け止めて反省し、改めていきましょう!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・加藤 遠江守(通称は権兵衛) 藤原 朝臣 光泰
・加藤 左衛門少尉(通称は藤次郎、加藤次) 藤原 朝臣 景廉
・征夷大将軍 右近衛大将 源 朝臣 頼朝
・斎藤 新九郎 藤原 高政(義龍)
・武田 大膳大夫(通称は太郎) 源 朝臣 晴信(入道信玄)
・織田 備後守(弾正忠。通称は三郎) 藤原(忌部) 朝臣 信秀
・織田 権大納言兼右近衛大将(弾正大弼。通称は三郎、上総介) 平(藤原、忌部) 朝臣 信長
・遠山 大和守(通称は左衛門尉等) 藤原 朝臣 景任
・織田(遠山、武田) 源三郎 平(藤原、忌部) 勝長(御坊丸、信房)
・征夷大将軍(将軍家) 足利 権大納言(通称不明) 源 朝臣 義昭
・秋山 伯耆守(通称は善右衛門尉) 源 朝臣 虎繁(信友、晴近、春近、晴親、信近)
・山県 三郎兵衛尉 源 昌景
・織田 秋田城介(通称は勘九郎) 平(藤原、忌部) 朝臣 信忠(信重)
・武田(諏訪) 四郎 源(神) 勝頼
・馬場 美濃守(通称不明) 源 朝臣 信春(信房)
・奥平 美作守(通称は九八郎) 源(丈部) 朝臣 貞昌(信昌)
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

↓岩村城についてもっと知りたくなったら下記リンクから情報収集してみてください!



モッピー!お金がたまるポイントサイト

参考
彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)
第一次~第三次合戦について
今日は何の日?徒然日記
第三次合戦について
今日は何の日?徒然日記
お城散歩

twitterfacebookでのフォロー、お待ちしてます!

/
記事を読んでいただき、ありがとうございました!他の記事もぜひご覧下さい。
次回は「納豆を作るという盲点」。

//
今期イチオシ曲!ぜひ聞いてください!
Too Far Away / Stoning Crows









パーソナルトレーニング【Global fitness】


書籍ベストセラー
PC周辺機器・パーツ
台所用品



あなたにおススメの記事


follow us in feedly
同じカテゴリー(趣味)の記事画像
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ
雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法
新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし
石山合戦から学ぶ―「理念」のもつパワー
天正伊賀の乱から学ぶ―リーダーがいないと組織はどうなる?
権現山の戦いから学ぶ―弱い者の戦い方
同じカテゴリー(趣味)の記事
 第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ (2020-09-17 20:00)
 雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法 (2020-09-13 20:00)
 新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし (2020-09-01 20:00)
 石山合戦から学ぶ―「理念」のもつパワー (2020-08-28 20:00)
 天正伊賀の乱から学ぶ―リーダーがいないと組織はどうなる? (2020-08-12 20:00)
 権現山の戦いから学ぶ―弱い者の戦い方 (2020-07-31 20:00)

Posted by Sosuke Washiya at 21:00│Comments(2)趣味
この記事へのコメント
こんにちは。お城散歩の管理人をしている上原と申します。このたびは私のブログを参照のうえ、コメントまでいただきありがとうございました。
今回の記事を興味深く拝見しました。確かに東美濃は戦略上の要地にもかかわらずその攻防戦はあまり知られていないですね。初めて知ることも多く勉強になりました。
また今後ともよろしくお願いします。
Posted by Castle Walker at 2020年06月28日 20:45
>Castle Walkerさん

コメントありがとうございます!

交通の要衝で、しかもこんなにドラマチックな戦いなのにあまり知られていないいないのは本当に不思議です。

当時の遠山家に謎が多いからでしょうか?

おつやの一代で大河ドラマを作れそうですよね。

岐阜県全体としても、古代から交通の要衝なのに、知名度の低い県として有名ですよね。

僕の中では超重要な県なので、多くの人に知られるようになってほしいです!
Posted by Sosuke WashiyaSosuke Washiya at 2020年06月29日 19:47
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。