『真田丸』、本多正信は「作左」ではない(第36回)
皆さんこんばんは。
今回は、去年の9月くらいの放送分ですが、大人気大河ドラマ『真田丸』の第36回「勝負」についての感想。
内容は、
犬伏で徳川方に就くことになった真田信幸(大泉洋)は小山の徳川陣へ向かい、石田方に就くことになった真田昌幸(草刈正雄)・信繁(堺雅人)は上田に向かい、一方、徳川家康(内野聖陽)は石田三成(山本耕史)の挙兵を知り、有名な小山評定ののち西に向かう。
徳川秀忠(星野源)は本多正信(近藤正臣)を軍師として上田に向かい、第二次上田合戦が始まるが、あっという間に関ヶ原本戦が終わり、秀忠軍は陣を放棄して西へ向かう…
というものでした。
真田昌幸が活躍すると割りと面白いのですが、やっぱり奇をてらいすぎですよね、このドラマ。
徳川家康は石田三成の挙兵をきいて怒っている様子ですが、そもそも怒っているということは予想外の出来事だということですが、それなら伏見城に重臣鳥居元忠らを置いた理由がわからないし(上方での挙兵を予想していたから、というのが一般的解釈)、前回にも書いたように、三成の挙兵で怒るくらいなら猛スピードで戻ってくればいい話だし…
あとは、福島正則らが岐阜城を落としたことで慌てるくらいなら最初からやはり急いで西に戻ればいいのに、実際はえらくのんびり戻っている説明もつかないし…
(これは、徳川本軍vs石田方での戦いになると徳川の豊臣への反乱という形になるから、あくまで豊臣家の内紛とするために豊臣家臣である福島らをせきたてて、彼らに口火を切らせたという解釈がある)
前にも言っていますが、史実どうのこうのというのはあきらめました。
(このドラマ、稲(吉田羊)が沼田で真田昌幸・信繁親子を追い返したところなど、妙なところで史実を再現していたりします)
しかし、練りに練られた一般的解釈を覆すなら、それなりのリアリティからくる説得力がなければ物語として下の下です(説得力に関しては『魁!!男塾』を見習ってほしい 笑)。
はっきりいって不快!(でも、もうルーティンになってしまっているので見る 笑)
あと細かいところですが、劇中で「本多作左(ほんださくざ)」という言葉が出てきたんですが、当時本多作左(=本多作左衛門重次)はすでに死亡しているので、おそらく本多正信をさしていたと思うのですが、正信の字(あざな)は「弥八郎(やはちろう)」だし、官職は「佐渡守(さどのかみ)」なので「作左」と呼ばれることはないんですよね。
ミスでしょうか?
まぁ人間なので細かいミスがあるのはしょうがないですが、ミスだとしたら、こんな初歩的なミスを脚本家が犯し、さらに数多くいるスタッフが全員見逃していたというのはちょっと悲しいですね。
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参考
渡る世間は愚痴ばかり
真田のよもやま話
雑記帳
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次回は「穴八幡宮」について。
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